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今回の一押しは「竹鶴さん」だあ!

2007年10月24日

 竹鶴政孝さんという人をご存じでしょうか。
 1894年(明治27年)、広島県竹原町(現竹原市)に造り酒屋の三男としてこの世に生を受け、1979年(昭和54年)に85年間の生涯を閉じるまでの間、日本の歴史に大きな足跡を残した方です。晩年には勲三等瑞宝章まで受章されています。ちょっと変わった名字ですので、ピンと来た方もいらっしゃるかもしれませんね。今回は、この竹鶴さんのお話を少々させていただくことにしましょう。

 竹鶴さんは、実家が造り酒屋であったため幼い頃からお酒に興味を持ち、大阪高等工業学校(現大阪大学)の醸造学科を卒業して、1916年に大阪市の洋酒メーカー、摂津酒造に入社しました。
 その当時、我が国には国産ウイスキーがなく、国産品は中性アルコールに甘味料や香料などを加えたイミテーションが主流だったそうで、本格的なウイスキー作りを計画した摂津酒造はその技術を導入すべく、入社2年目の竹鶴さんをウイスキー作りの本場スコットランドに研修のため派遣することになったのだそうです。

 社命を受けて単身スコットランドへ旅立った竹鶴さんは、グラスゴー大学で応用化学を学び、豊富なウイスキー関係の文献を読みあさり、ここで出会ったウイリアム博士という方から紹介を受けてローゼスという町に下宿することになりました。ハイランドと呼ばれるこの地方には多くの蒸留所が点在し、竹鶴さんはその多くを訪れて一生懸命学んだそうです。ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話も残っています。
 そして2年間の留学生活を終えて帰国した後、摂津酒造は竹鶴さんの知識を元に国産ウイスキーの製造を企画しました。ところが運の悪いことに、時を同じくして世界恐慌が起こってしまい資金調達ができず、計画は頓挫してしまいました。失意の竹鶴さんはその後1922年に摂津酒造を退社して、大阪の桃山中学で化学を教える教員生活をしばらくしていたそうです。

 しかしその当時、大阪にある「寿屋」という洋酒メーカーが摂津酒造と同様に国産ウイスキーの製造を企画しておりました。そして同社社長の鳥井信治郎さんは、その経験と知識を見込んで、強力な助っ人というか技術者として竹鶴さんを採用したのです。契約期間は10年間という約束でした。皆さんご存じのように、寿屋は今のサントリーの母体となった会社で、サントリーという社名は、同社のかつての主力商品「赤玉ポートワイン」のシンボルマークである赤玉すなわち太陽(サン)に社長の鳥井という名前をつなげた、というのは有名な話ですね。
 寿屋に入社した竹鶴さんは、本格的なウイスキーの製造にはスコットランドと風土が似通った北海道が適していると考えましたが、鳥井社長は輸送コストなどの問題から他の候補地を選定するよう指示し、最終的に大阪の山崎に蒸留所を作ることが決まりました。同工場の製造設備やポットスチルは、すべて竹鶴さんが設計したものだそうです。
 山崎工場は1924年に完成し、竹鶴さんはその初代工場長となりました。とは言っても、スタートはたった二人しかいない小さな組織だったそうです。その後同工場で製造された最初のウイスキー「サントリー白札」が1929年に発売され、ご自身は横浜の工場長に転任するなどして活躍しましたが、約束の10年が経過した1934年に、竹鶴さんは寿屋を退社しました。

 
 サントリー山崎蒸留所で生産される「山崎」

 さて問題はここからです。寿屋を退職した竹鶴さんは、以前からの念願であった北海道でのウイスキー製造を決意し、ついにこれを実現するに至ります。蒸留所として選んだ場所は札幌から西へ約60q、車で約1時間ほど走り、運河で有名な小樽市を過ぎてしばらく行ったところにある余市という街です。
 北海道といえばあなた、私のこの一押しコーナーに大いに関係があるところですぞ。テーマ的にグググーっと近づいてきました。いい感じです。

 
 ニッカ余市蒸留所で生産される「余市」

 余市は、私は全然知りませんでしたが、リンゴの産地なんですね。リンゴといえば信州や青森だけかと勝手に思いこんでいましたので、海を渡った北海道でリンゴができるというのは何だか不思議な気がします。
 お酒は発酵というステップを踏んで完成していきますので、製品化までにはどうしても時間がかかります。特にウイスキーやブランデーの場合、サントリーオールドとかVSO(Very Superior Old)いう名前からも分かるように、時間をかけて貯蔵した古いものほどまろやかで味わい深くて珍重される、という特質があります。そこで竹鶴さんは、会社を設立してからウイスキーが出荷できるまでのしばらくの間は現地特産のリンゴをジュースにして販売し、その利益で資金をつなぐ計画を立てました。このため、設立した会社の名前を「大日本果汁株式会社」としたのです。
 何が言いたいか分かりますか……? そうです。大日本果汁の「日」と「果」を取ってニッカ。ニッカウヰスキーのニッカはここから来ているのですね〜〜〜。知ってた?知ってた? え?知ってた… あ、そう…
 
 ニッカウヰスキーの余市蒸留所は今でもフル稼働している現役の工場ですが、いかにも北海道らしい、まるで観光施設のようなとても美しいところです。私、この工場見学が大好きで、既に2回訪れてしまいました。でもまた行きたくなってしまいます。
 工場の敷地の中には、見学者のために「ウイスキー博物館」や試飲コーナー、ギフトショップなどが設けられています。特筆すべきは「ウイスキー博物館」で、ここには竹鶴さんの生涯の様子がさまざまな愛用品とともに丁寧に展示されており、創業者に対する会社の尊敬の気持ちがひしひしと伝わってきます。
 竹鶴さんは、御紹介した略歴からは仕事一筋の方のような印象を受けますが、仕事が出来る人に共通する特質として、多才で多趣味、人生をエンジョイされた様子が展示物からうかがい知ることができます。

  
 美しい余市蒸留所の建築物         正面入口のアーチから

  
 赤い屋根が印象的です            空気も爽やか

  
 第一号ウイスキー      美しいポットスチル

 たとえば竹鶴さんは狩りをよくし、巨大な熊をしとめた写真が残っています。魚釣りでもかなりの獲物をつり上げ、立派な魚拓を残されました。留学時代にはイギリスでコルネットを購入されていますので、きっと音楽への素養もおありだったのでしょう。そして最大の収穫?は妻のリタさんです。
 竹鶴さんは立派な体格の方で、柔道をよくなさったそうです。スコットランド滞在中には頼まれて柔道を教え、そのときの教え子であるラムゼイ・カウンという人の姉リタさんという女性と知り合って恋愛をし、1920年1月に結婚します。かなり先進的な国際結婚ですが、やはり家族のほとんどに反対され満足な結婚式も挙げられなかったそうです。しかしリタさんは、その後生涯を日本で過ごし、日本髪を結ったり和服を着たりと、日本に溶け込もうと努力した姿が写真に残されています。本場スコットランドから持参したクラシックなゴルフクラブのセットも残っていますので、きっとゴルフもたしなまれたのでしょう。何ともロマンチックで素敵な人生ですね。
 
 
大熊をしとめた竹鶴さんの勇姿   立派な魚拓も

 
 竹鶴さん愛用のコルネット     リタさん持参のゴルフクラブ

 
 若き日の竹鶴政孝氏      妻のリタさん


 日本髪姿のリタさん

 その生涯をウイスキー作りに捧げた竹鶴さん。1962年、イギリスのヒューム副首相が来日した際、「一人の青年が万年筆とノートでウイスキー製造技術の秘密を全部盗んでいった」と竹鶴さんを賞賛する発言をしたそうです。サントリーやニッカなど、さまざまな洋酒メーカーのCMを見ていると、これら一流企業は昔から当然のように存在している気がしますが、実はほんの一握りの人たちが、情報網もほとんど発達していなかった時代に苦心して地球の裏側から持ち帰った技術が元となって成長してきたものであることが分かります。その歴史は、まるで一粒の種が大きな樹木に成長するかのようですね。
 そして、今私たちが当たり前のように楽しんでいるお酒の数々のほとんどが、実はわずか100年にも満たない昔に先人たちの努力と苦労によって我が国にもたらされたものであることを思うと、普段水割りなどにしてガブガブ飲んでいるウイスキーも、たまには正座をして目を閉じて、その香りを確かめつつオン・ザ・ロックなどで静かに味わいたいものだと、改めて思います。というわけで今月の一押しは、私にウイスキーの楽しみ方を思い出させてくれた「竹鶴政孝さん」でした。

 ウイキペディアによれば、竹鶴さんの酒量はウイスキー1日1本。さすがに晩年には3日で2本に減らしたそうです。そんなに飲み続けても肝硬変にもガンにもならず、85年の人生を悠々と楽しんで全うされたとは…。まぁ、一種の天才というしかありません。
 それに比べてこの私めは、たまには休肝日を設けなさいと人に言われてビクビクしたり、今夜はこのくらいにしておかないと明日が辛いかなとセーブしてみたり。何というか、テーブルにニッカウヰスキーのボトルでもドンと置いて、もっと正々堂々と楽しめないもんですかね。人間がちいせーなー、ほんとに。これじゃあ歴史に名前は残らないわ…


(注) 今回の一押しは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』並びにニッカウヰスキーのホームページを参考にして執筆させていただきました。 

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