konge-log.gif

今回の一押しは「学問のすゝめ」だあ!

2009年1月27日
 

 明けましておめでとうございます。また新しい一年が始まりましたね。不況、不況と暗い話題ばかりの昨今ではありますが、アメリカでは初の黒人大統領が誕生するなど明るい未来への手がかりがないわけでもありません。私も楽しい話題をご提供できるよう、微力ながらこのコーナーで努力して参る所存ですので、どうぞ引き続きよろしくお願いします。

 さてこのお正月は、大したこともしていないのにあっという間に時間が過ぎ去ってしまい、私は読書やウォーキングなどの目標をほとんど実現できないまま、新年の仕事モードに突入してしまいました。
 そこでこれはまずいと多少焦りつつ、先日の週末休みにふと思い立って上野の寛永寺を訪れてきました。なぜ寛永寺なの?と聞かれても困るのですが、実は京都、奈良、鎌倉など遠方の社寺には何度も足を運んでいるのに、恥ずかしながら東京都内のこの高名なお寺には行ったことがなかったんです。徳川家ゆかりの由緒あるお寺であることは知っていたけれど、太平洋戦争の空襲でかなりの被害を受けたはずで、見るべきものはそんなにないのかな〜と今まで何となく通過してきていたのでした。しかしこの日、ふと寛永寺を思い出したことで、私は大変素晴らしい経験をしてしまったのでありますよ。
 今回はそんなお話を少し。

 寛永寺は、JR山手線の鶯谷駅を降りて5分ほど歩けば到着する、実に交通の便のよいところにあります。敷地内の墓地からは鶯谷のラブホテル街が間近に見渡せ、何とも不思議な景色ではありますが、「色即是空」みたいな感じ(意味が違うか)で悪くありません。写真はこんな感じです。

 この日は冬特有の抜けるような青空で、散策には最高の天気でした。私はよく知らなかったのですが、現在の上野公園はそのほとんどがかつて寛永寺の敷地だったところに位置しているのですね。上野の五重塔は「旧寛永寺五重塔」と呼ばれていますが、これはこの塔が現在では上野動物園の敷地内にあって東京都の所有となっているため、「旧」の文字がついているのだそうです(Wikipediaより)。

 ということは、鶯谷駅で降りましたが、辺り一帯は既に上野公園そのものというわけで、少し歩いたらいつの間にか東京国立博物館の前に着いておりました。その日は散歩のつもりで来ましたので、博物館に入る予定など全くなかったのですが、その入口には「未来をひらく福沢諭吉展」という大きな看板が出ています。
 チケット売場は閑散とした雰囲気でそれほど行列が出来ているわけでもなく、私もその時点では特別な興味を抱きませんでしたが、それでも何となくインスピレーションが閃きました。ここにはきっと何かがあるぞ、お前は絶対に入るべきだ、と耳元で誰かに囁かれたような気分です。そして「どうしようかなー。もっと歩きたいんだけどなー。でもちょっと見てみたいしなー」とどっちつかずの優柔不断な気持ちで何となく1,200円のチケットを購入し、博物館の敷地内にある表慶館という建物の前に進んでいきました。
 今にして思えば、私はこのとき本当に素晴らしい決断をしたと思います。だってその数分後には鳥肌が立つような経験をすることができ、それから数週間が経った現在も、その感激の余韻に浸りつつ福沢氏の著書を読みふけっているのですから。

 皆さんは「福沢諭吉」と聞いて何を頭に浮かべますか?慶応義塾大学ご出身の方なら相当お詳しいかと思いますが、私のような一般人には特に強いイメージはありませんで、せいぜい「天は人の上に人を作らず」、「慶應義塾」、そして「一万円札」くらいしかイメージできません。そして恥ずかしながら、「天は人の上に〜」というフレーズこそ知っていましたが、私はその言葉で始まる福沢諭吉の高名な著書「学問のすゝめ」すら読んだことがなかったのです。
 しかしこの展覧会を見て、私は強烈なショックを受けました。そしてすぐにアマゾンで「学問のすゝめ」を取り寄せ、今現在まさしく「読みふけって」いる状態です。

 以下Wikipedia の解説を中心にご紹介させて頂きますが、福沢諭吉という人は天保5年12月12日(1835年1月10日)にこの世に生を受け、明治34年(1901年)2月3日に亡くなるまでの生涯を通じて、数多くの著著を残し、新聞を発刊し、学校を設立するなどして日本の教育に貢献し、国家の近代化に大きな足跡を残した人です。
 ご存じのとおり明治維新は1868年ですから、福沢氏の人生66年のちょうどど真ん中に明治維新があったことになり、まさしく激動の時代を生き抜いた人だということが分かります。豊前国中津藩(現在の大分県)の下級藩士の末っ子としてこの世に生を受けた福沢氏は、幼少の頃は読書嫌いだったそうですが、14,5歳の頃から勉学に努め始め、19歳の時に長崎に遊学して蘭学に触れてこれを学び、その後も引き続き大阪に出てオランダ語の原典を読みあさったとのことです。

 その後大阪の適塾で頭角を現した同氏は、23歳の時に江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるため江戸へ出ます。そして蘭学塾「一小家塾(後の慶應義塾の礎となった学校)」で教鞭を執りますが、24歳の時に外国人居留地となっていた横浜の見物に出かけ、そこでは専ら英語が用いられて自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受けた、とのことです。
 そこで英語の必要性を痛感した同氏は、辞書をたよりにほぼ独学で英語の勉強を始め、1860年(万延元年)には勝海舟らとともに咸臨丸でアメリカ合衆国を訪れるまでになります。
 語学の勉強もさることながら、さまざまな洋書を読破し、数回にわたるアメリカ・ヨーロッパ訪問を経験したことによって、福沢氏は日本の文化・思想が欧米諸国のリベラリズムに比べて相当遅れていることを痛感したようです。そこでその遅れを取り戻すため、前述のように慶應義塾を創設して熱心な教育活動を行い、また著書や新聞刊行などの文筆活動を通じて国民に広く欧米の民主主義思想を浸透させました。

 「学問のすゝめ」という本は、このような啓蒙活動の中で発刊されたものです。これも今回知ったことですが、この本は最初から一冊の書物の体裁を取っていたのではなく、初編が明治5年5月に出版され、二編が明治6年11月、三編が同年12月、四編が明治7年1月というように不連続の月刊誌のような形で次々に発刊されていき、最終の十七編が明治9年11月に刊行されて完結しました。そして明治13年7月に、それらをすべて合本した「合本学問之勧」が出版されています。
 その合本の序文に、福沢氏自身の手で驚くべきことが記述されています。以下、原文のままご紹介しますと、

「本編は余が読書の余暇随時に記すところにして、明治五年二月第一編を初として、同九年十一月第十七編をもって終わり、発兌の全数、今日に至るまで凡そ七十万冊にして、そのうち初編は二十万冊に下らず。これに加うるに、前年は版権の法厳ならずして偽版の流行盛んなりしことなれば、その数もまた十数万なるべし。仮に初編の真偽版本を合して二十二万冊とすれば、これを日本の人口三千五百万に比例して、国民百六十名のうち一名は必ずこの書を読みたる者なり。」

 いかがですか。私はこの序文を読んで強く感じたことがいくつかありました。まず第一に、わずか150年の間に日本の人口は3,500万人から1億2,000万人へと3倍以上も増えたということ。すごいですね、まるでねずみのようです。続いて総販売数70万冊を今の人口に換算すると240万冊にもなり、この本はミリオンセラーだったということ。これもすごいですね、ハリー・ポッターも真っ青という感じです。
 そしてもう一つは、今の私の日本語力でも150年前のこの本をまったく普通に読める、ということです。今回は岩波文庫版を購入したのですが、現代用に多少の表記の修正はしてくれてあるとのことですが、90%はすらすらと行けます。皆さんにも是非一度手に取って頂きたいのですが、私、こんなに面白い本を最近読んだことがあっただろうか、というくらい、読む度に没頭してしまいます。



 私ごときが批評するのは恐れ多いことですが、文章のリズムのよさ、例え話や事例の面白さは普通ではありません。また論理の展開が実に合理的で、まるで英語の本を読んでいるようです(学生時代に英語を勉強した方は、学術的な文章は日本語よりも英語の方がずっと理解しやすいという経験をされたと思います)。
 たとえば次の文章などいかがですか。
 
「人民は既に一国の家元にて国を護るための入用を払うはもとよりその職分なれば、この入用を出すにつき決して不平の顔色を見(あら)わすべからず。国を護るためには役人の給料なかるべからず、海陸の軍費なかるべからず、裁判所の入用もあり、地方官の入用もあり、その高を集めてこれを見れば大金のように思わるれども、一人前の頭に割付けて何程なるや。日本にて歳入の高を全国の人口に割付けなば、一人前に一円か二円なるべし。一年の間にわずか一、二円の金を払うて政府の保護を被り、夜盗の患(うれい)もなく、独旅行(ひとりたび)に山賊の恐れもなくして、安穏にこの世を渡るは大なる便利ならずや。凡そ世の中に割合よき商売ありといえども、運上(税金のこと。筆者注)を払うて政府の保護を買うほど安きものはなかるべし。世上の有様を見るに、普請に金を費やす者あり、美服美食に力を尽す者あり、甚だしきは酒色のために銭を棄てて身代を傾ける者あり、これらの費(ついえ)をもって運上の高に比較しなば、もとより同日の話に非ず、不筋の金なればこそ一銭をも惜しむべけれども、道理において出す筈のみならず、これを出して安きものを買うべき銭なれば、思案にも及ばず運上を払うべきなり。」(学問のすゝめ 七編)

 これは私の専門分野である税金について述べたものですが、こういう風に言われると税金も「払ってもいいかな〜」という気分になりますよね?

 また思想や道徳に関する記述もとても分かりやすく、思わず唸ってしまう文章があちらこちらに見受けられます。たとえば、よく議論されることですが、「自由」と「わがまま」の違いってどこにあると皆さんは思いますか?
 私は今まで「人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」のが自由であると考えてきましたし、そう教わってきた気がしますが、福沢先生(あまりに素晴らしいのでついに先生と呼んでしまいました)は明確に次のように述べておられます。

「自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。たとえば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放蕩は諸人の手本となりついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず。」(学問のすゝめ 一編)

 ええ〜っ! 自分のお金でどんちゃん騒ぎをやって何が悪い!と思っていた私には、この論理は激しく新鮮でした。でも考えてみれば今の世の中、自分の家にゴミを山のように集める奇行をする人がいたり、カラスに餌をやって何が悪い!と怒鳴り散らす人がいたりと、明らかな迷惑行為が横行していますが、これを取り締まる法律がないのは自由の意味をはき違えているからなんですね。
 「一人の放蕩は諸人の手本とな」るから「その罪許すべからず」という明確な論理が社会に浸透していれば、こんなおかしなことにはならないのかもしれません。

 福沢先生は、この本の中で、いくら立派な法律や政府の組織を作っても国民に「独立自尊」の精神が育たなければ何の意味もない、と繰り返し述べておられます。そしてその独立自尊の考え方を浸透させるためには学問をすることが必要不可欠であり、学問といってもただ本を読むのではなく、医学、物理学、建築学、商学などありとあらゆる実学を学ぶことが必要だと力説されているのです。
 「学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。学者小安に安んずるなかれ。粗衣粗食、寒暑を憚らず、米もつくべし、薪も割るべし。」(学問のすゝめ 十編)

 この「学問のすゝめ」、自由が行き着くところまで行ってしまい、ついに末期症状となった現代の日本人全員が読んで、欧米かぶれのなれの果てを深く反省すべきべきではないかな、と私は思います。というわけで今月の一押しは、新年にふさわしく格調高き「学問のすゝめ」でした。福沢諭吉展は東京国立博物館表慶館にて3月8日まで開催中ですので、騙されたと思って、是非一度足を運んでみて下さい。

 ところで、一万円札に印刷されている福沢先生の写真はかなり晩年のものですね。あまり若いときの写真では貫禄がないから採用されないのかも知れませんが、若い頃の福沢先生は相当いい男で、ご自分でも容姿には自信がおありだったらしく、イケメンの写真がたくさん残されています。ご本人が一万円札の肖像画を見たら、もっと若いときの写真にしてくれよ、と仰ったかもしれません。
 それにしてもついこの間まで「ユキチが三枚」なんて言っていた自分が恥ずかしくて仕方がありません。福沢先生調に言えば、如何に物を知らずとて味噌と糞の区別もつかず放言を繰り返したるとは果たして何の心ぞや、その罪許すべからず、ってな感じですかね。
 一年の計。今年は言葉遣いに気をつけて、立派な大人を目指したいと思います。そのためには後にも先にも学問が必要だよね…


27歳当時の福沢諭吉(パリにて撮影、Wikipediaより転載)

HOME ・ LIST ・ TOP