konge-log.gif

今回の一押しは「豪徳寺」だあ!

2009年3月26日
 

 東京にお住まいの方でしたら、小田急線に「豪徳寺」という駅があるのをご存じだと思います。新宿から15分ほど乗れば到着する、如何にも私鉄沿線という雰囲気の駅です。私は小田急線には何度となく乗車してきましたが、今までこの駅で下車したことは一度もありませんでした。「豪」とか「徳」という字のゴージャスなイメージ からはほど遠く、世田谷区内の物静かな住宅街の中にあり、私には何の関係もない存在だったからです。

 ところがここのところ福沢諭吉に興味を抱き、そのつながりで明治維新前後に生きた人々に関する本を読んでいくうち、豪徳寺駅のすぐ近くにあるその名も「豪徳寺」というお寺がものすごく身近な存在に思えてきてしまいました。私の住まいからも近いし気軽な散歩コースなので、確定申告が明けたとある休日の夕方、ふらっと散策してきました。なかなか面白い発見がありましたので、今回はそのお話を少しさせていただきます。



 先日、大阪府の橋下知事が「国は詐欺集団だ!」といつもの怪気炎を上げておられるのをニュースで見ました。私はこの方の政治信条を詳しくは存じ上げませんが、大阪府の財政再建はもちろんのこと、地方分権とか地方の自立というようなことを大きな課題としておられるのでしょう。なかなか頼もしい存在だと思いますが、しかし今から150年ほど前には、恐らく橋下さんが目指しているような状況が日本にはあったのですね。すなわち日本国中に「藩」という小国が多数あり、それらが群雄割拠して、あたかも合衆国のような状況を呈していたわけです。

 最近読んだ何冊かの本から得た知識をミックスしますと、学問的には不正確かもしれませんが、当時の状況に関してはおおよそ次のようことが言えると思います。

 すなわち徳川家康が江戸幕府を開いて以来、日本は260年以上の長い年月に渡り平和な鎖国状態を維持してきました。その間、幕府は士農工商の身分制度や参勤交代などを通じて中央集権制を維持し、強大な政治力を誇ります。庶民にとっては窮屈な制度ですが、しかし福沢諭吉の「文明論之概略」という本によれば、我が国には諸外国に比べて大きな政治構造上の利点がありました。それは同書中の「支那の元素は一なり、日本の元素は二なり」という言葉に表されるしくみです。
 どういうことかというと、歴史的に見ると中国でもヨーロッパでも、それぞれの時代においてその時の王が一人で全ての権力を独占しました。単一の王の下では思想の自由は厳しく取り締まられ、人民は搾取される一方であって(秦の始皇帝による「焚書坑儒」などはその代表例です)、自由闊達な文化が開花する可能性など望むべくもありません。
 そしてある民族が弱体化すると、今度は別の民族が武力でこれを滅ぼし、民族間で天下取りの戦争を繰り返します。前の民族が形作った建物や偶像などは端から破壊され、その度に多くの血が流されてきたわけです。

 ところが我が国の政治システムには「公家」と「武家」という二元構造が取り入れられており、実質的には幕府(武家)が武力によって政治の実権を握っているけれども、形式的には万世一系の歴史と伝統を根拠として、天皇家(公家)が国家の頂点にあるというスタイルを守っている。すなわち元素が二つある構造なのです。このことについて、福沢先生は次のように述べておられます。

 「かくの如く至尊の考えと至強の考えと互いに相平均してその間に余地を残し、いささかにても思想の運動を許して道理の働くべき端緒を開きたるものは、これを我が日本偶然の僥倖といわざるを得ず。」(「文明論之概略」巻の1第2章)

 すなわち江戸幕府が長期間継続して元禄文化などの庶民文化が開花できたのは、権力の元素が二つあってその間に多少なりとも思想の自由な運動が許されたという偶然と幸運が起因している、というわけです。

 ところがある日突然、外国から黒船がやってきて無理難題を突きつけられ大騒ぎとなり、国が滅ぼされるかもしれない、という危機感が国全体を覆いました。
 「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も眠れず」という狂歌をご存じでしょうか。「上喜撰(じょうきせん)」というのは高級なお茶の銘柄とのことですが、お茶を四杯飲んで夜眠れない、というのを同じ発音の「蒸気船」に引っかけ、外国船が四隻来ただけで国中が大騒ぎしている、と皮肉ったものです。実にうまいですね。
 このような状況下で、外国との交渉における幕府役人の腰抜け振りが明らかとなり、国中の不満は一気に爆発します。封建的なシステムで全国の藩を力でねじ伏せてきた江戸幕府の威光は衰退し、各地で橋下府知事のような藩主が「幕府は詐欺集団だ!」と次々に雄叫びを上げ始めました。

 現代風にアレンジして言えば、不満分子の最先端は山口県知事(長州藩)です。この県には、尊皇攘夷(そんのうじょうい)と言って、我が国を守ろう→我が国の王様である天皇を大切にしよう→外国人なんか端から殺せ〜!という過激な思想の持ち主が大勢ひしめいていました。すなわち前述の二つの元素で言えば、「武家>公家」という不等式を「武家<公家」に逆転させて、日本という歴史ある国家のアイデンティティを王制という旗印で明確にし、これにより国民が一致団結して外敵と闘おうという考えです。その指導者である吉田松陰という高名な思想家の下には、数多くの人物が育ちました。
 一方1862年9月には、鹿児島県知事(薩摩藩)が皇居の帰りに神奈川県を通りかかったとき、偶然行き会ったイギリス人の一行の振る舞いが無礼だというので部下が刀を抜いて斬り殺すという事件を起こしてしまいました(生麦事件)。これに怒ったイギリス軍は多額の賠償金を幕府に求め、それだけでは収まらず鹿児島にも軍艦を回し、鹿児島軍と薩英戦争を起こすことになります。同じ頃、下関でも山口軍が外国船無差別攻撃を行っています。
 こうなると幕府などないに等しく、日本はコントロールのきかない無政府状態で、それぞれの藩が勝手に外国とドンパチ戦争を始めてしまうという有様です。山口県と鹿児島県の幕府並びに外国への敵意はさらに激しくなり、「腰抜け外交を繰り返す麻生政権などぶっつぶせ!」という思想が強大になりました。

 ところで豪徳寺はどこに行っちゃったのでしょう?大丈夫、もうしばらくご辛抱下さい。必ずたどり着きますから。

 一方の幕府には、その中心に井伊直弼(いいなおすけ)という官房長官(大老)がいました。この人は滋賀県(彦根藩)の出身です。井伊大老は「早くしないとイギリスやフランスが日本を攻めてきちゃうよ。だから俺たちに任せときな」とアメリカに脅されて、差し出された書類に天皇の許可を得ないままはんこを押してしまいます。日米修好通商条約というのがこれで、日本にとって相当不利な内容の条約だったようです。玄関先に来た新聞勧誘のおじさんが恐くて、お父さんに相談しないまま購読契約の書類にはんこを押しちゃうようなものですね。
 これを知った山口県民や鹿児島県民は大激怒です。しかし井伊官房長官は強気でした。俺に刃向かうヤツはただじゃおかねえ、というわけで、1858年(安政5年)からその翌年にかけて、尊王攘夷の思想に染まった人たちを次々に捕まえては処刑してしまいます。これが世に悪名高い「安政の大獄」と呼ばれる事件です。吉田松陰も、この弾圧により僅か29歳の若さでこの世を去っています。

 物騒な世の中だったんですね…。調べてみると、
・吉田松陰→29歳で死罪
・高杉晋作→27歳で肺結核のため死去
・坂本龍馬→31歳で暗殺
・西郷隆盛→49歳で西南戦争により切腹
 というように、高名な政治家・志士の数多くが若くして不幸な死に方をしています。恨みが仕返しを呼び、この後の日本はあちこちで暗殺事件が起きるなど、暗い時代が続くことになります。福沢諭吉先生も、「維新前文久二、三年から維新後明治六、七年の頃まで、十二、三年の間が最も物騒な世の中で、この間私は東京にいて夜分は決して外出せず、余儀なく旅行するときは、姓名を偽り、荷物にも福沢としるさず、コソコソして往来するその有様は、かけおち者が人目を忍び、どろぼうが逃げて回るような風で、誠におもしろくない」とご自身の著書の中で述べておられるくらいです(福翁自伝「暗殺の心配」)。

 さて、安政の大獄は大変な事件でした。尊王攘夷派の怒りは収まるどころではありません。ちょんまげに帯刀の時代でしたから血で血を洗う事件が次々に起こります。恨みを募らせた尊王攘夷派は、事件の当事者である山口県民に同じ思想の茨城県民(水戸藩)が加勢して、皇居の警視庁の近くでついに井伊大老を斬り殺してしまいました(桜田門外の変)。
 もう日本はめちゃくちゃです。外からは恐い人が沢山やってきて、「今度はスポーツ新聞を取れ」とか「うちの百科事典も買ってくれ」とか「物干し竿も欲しいでしょう」とか入れ替わり立ち替わり脅しに来る。ところが家の中では兄ちゃんと弟が刃物を持って大げんかをしている。どうにもなりません。
 しかし時代の流れというのは恐ろしいもので、刀を持った武士たちも近代化の波に勝つことはできませんでした。結局、尊王攘夷派は幕府を倒して目的を達成し、大政奉還により国家権力は幕府から天皇に移って明治維新を迎えることとなりました。しかし「尊皇」と「攘夷」をセットで主張していた人たちは、「尊皇」を実現して間もなく、大きな時代の変化に気づき外国人をやっつけるなどという「攘夷」の妄想を引っ込めて、日本は近代化へと歩み始めたわけです。この辺の気持ちの切り替えの素早いところが、いかにも日本人らしい器用さの表れでしょうか。

 さて警視庁前で斬り殺された井伊大老は、当然どこかに埋葬されなければなりません。ご出身は滋賀県ですから遺体は琵琶湖のほとりにでも運ばれたのかと思ったら、やっとたどり着きました、なんと世田谷区の豪徳寺に葬られたのですね。ついにつながった〜(笑)。豪徳寺には現在も井伊家代々のお墓があり、みごとな石灯籠が整然と並んでいて、規模は小さいですが日光東照宮か奈良の春日大社のような風景です。
 そして豪徳寺の門前の道を左に折れ、国士舘大学と世田谷区役所の間を抜けて10分ほど歩くと、その先に松陰神社が見えてきます。そうです、安政の大獄で井伊直弼により処刑された吉田松陰のお墓が、何と井伊家の墓地のすぐ近くにあるのです。
 幕末から明治にかけての衝撃的な史実を勉強しつつ物静かな世田谷の緑の街を歩くなんて、ちょっと知的な散策コースだと思いませんか?まだ未経験の方は、2時間もあれば十分に堪能できますので是非一度お出かけされることをお勧めします。というわけで今月の一押しは、福沢諭吉先生に感化されて思わぬ新発見をしてしまった世田谷区の「豪徳寺」でした。


井伊家の墓地(左奥が直弼の墓)と  松陰神社

 ところで、なぜ井伊家のお墓が豪徳寺にあるのでしょうか。これにはもう一つ面白いお話がありました。
 豪徳寺はかつては貧しい寺でしたが、住職は猫をとても可愛がり、その世話をしていたそうです。ある日、門前が騒がしいので出てみると、鷹狩りの帰りらしい武士が数名、馬を降りて入ってきました。「この寺の前を通りかかったところ、門前にうずくまっている猫がしきりに手招きをするので入ってきた。しばらく休憩させて欲しい」とのこと。
 住職がお茶を出してもてなしたら、「我こそは彦根の城主、井伊直孝である。猫に招き入れられ雨をしのぐことができた。これは仏様のお導きに違いない」と感謝され、豪徳寺は井伊家の菩提寺になった、というのです。井伊直孝は井伊家の二代目藩主、井伊直弼の祖先にあたる人です。
 このような次第で、何とびっくり、街のあちこちで見かける「招き猫」はこの豪徳寺が発祥の地なんですって。そんなわけで境内には招き猫の販売所があり、大小さまざまなサイズの招き猫を売っているのですが、その顔があまりに可愛いので、私は手頃な大きさの「6号」というのを早速購入してしまいました。
 
 可愛い招き猫を我が家に持ち帰り、「ろくごー」と名前をつけて私は早速玄関に飾りました。きゃー、かわいい。これでお侍様が訪ねてきちゃって福がジャンジャン舞い込んできたらどうしよう〜〜。でもこんなかわいい猫を飾って、我が家の愛犬はるちゃんがひがまないかしら。それだけが心配だわ…

 
 「ろくごー」と「はるちゃん」

HOME ・ LIST ・ TOP