須田邦裕の「今月の一押し!!」
2003.12.20  今回の一押しは「豊饒の海」だあ!

  十二月も下旬となり、また一年が終わろうとしています。
 皆さんにとって、今年はどんな年でしたか?世間では、殺人、強盗、放火など殺伐とした事件が頻繁に起き、日本がますます住みにくい国になってきたことを実感する毎日でした。来年こそはイラク戦争も解決し、世界も日本も平和になって欲しいと願うばかりです。

 と、このようなコメントを書いた後でいつも感じることなのですが、年末年始って何だかすごく改まった気持ちになるのは私だけでしょうか。大晦日と元旦は、今年の年末の場合は水曜日と木曜日なわけで、そう考えると別に何ということはないのですが、大晦日が近づいてくると何となく胸が張り裂けそうな切ない気持ちになる。そして年が明けると一年の計なんて考えたりして、これまた普段とは異なる新鮮で神妙な気分になります。とても連続した二つの日とは思えません。

 これには恐らく、子供の頃からのさまざまな体験が影響しているのだと思います。水曜日までは古いカレンダー、木曜日からは掛け替えたばかりの綺麗なやつ。水曜日までは普段着なのに、木曜日になると突然晴れ着の女の子が街にあふれ出す。テレビ番組も一日違うだけで趣がまったく変わり、昨日まで不機嫌だった周りの大人たちが突然ニコニコしてお年玉なんかくれたりする。この非連続性が、私の心に「連続した二つの日とは思えない」気持ちを植え付けたんですね、きっと。
 
 ところで話は全然変わりますが、私、東京都美術館で開催されていた大英博物館展に先日行ってきました。正確に言うと、入り口までなんですけど。だって、すごーく混んでたんだもん。入場30分待ちとかで、入り口には長蛇の人の列。これじゃあ何時になるか分からないと思い、少し迷いましたが結構簡単にあきらめました。でもその代わりに、入り口脇にある土産物ショップで、シャンポリオン(古代エジプト文字のヒエログリフの解読に成功した人)の伝記とミイラの作り方の本を買ってきました。
 それを読んで思ったのですが、古代エジプト人は10代の若い頃から、次の世に生まれ変わることを考えていたのですね。人間も動物もみんなミイラにして肉体を保存し、使っていた家財道具も一緒に埋葬して、永遠の来世に備える。言ってみれば、死とはしばらく眠りにつくようなものだったのでしょうか。

 最近ときどき思うんですが、死ぬことと眠りに落ちることって案外近いことのような気がします。もちろん客観的にみたコトの重大さは比較しようもありませんが、意識が途切れるという点ではあまり区別がつかないような。「眠るように死ぬ」という表現がありますが、そういう安らかな最期を迎えることができるならば、その次があるかないか(再び目が覚めるかどうか)は実はよく分からないんですよね。
 眠るということは、すなわち意識に非連続性が生じるということであり、したがってその間に自分や周りの世界に何が起きているのかを検証することはできないわけで、次の朝に再び目が覚めたとき、それは目が覚めたのか生まれ変わったのかよく分からないわけです。

 このような疑問がどんどん膨らんでいくと、そこには輪廻転生という考え方が生まれてきます。人の魂は、ひとたび肉体が滅んでもまた次の肉体に宿り、次々に生まれ変わっていく。実に壮大で夢のある考え方ですよね。
 この輪廻転生を題材にした文学作品があるのをご存じですか。それはご存じ三島由紀夫氏の絶筆となった「豊饒の海」です。絢爛で華麗な文章の大変な力作で、「春の雪」、「奔馬」、「暁の寺」、「天人五衰」という四つの作品から構成されています。

 種明かしは禁物ですからあまり詳しくは触れませんが、第一巻は大正時代の貴族のお話。主人公は松枝清顕とその友人の本多繁邦という青年で、松枝のラブストーリーがメインなのですが、若くして亡くなった松枝の魂が第二巻以降で次々に別の肉体に宿って生まれ変わり、そのことに気づいた本多は松枝を追いかけ、時間の経過とともに年老いていくという話です。そして三島氏自身も、この作品を書き上げた後で盾の会のメンバーとともに市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乱入し、自ら割腹自殺を遂げるという大事件を起こしました。

 最近の殺伐とした世相を見ていると、時代背景はまったく異なりますが、昭和40年代当時の暗いムードをつい想起してしまいます。これも時代の輪廻なのでしょうか。そんなわけで今月の一押しは、「豊饒の海全四巻」(三島由紀夫著)でした。一年の節目、時の非連続性を意識する年末年始に、このような重厚長大な作品に挑んでみるのも悪くありません。でも読み始めた途端に意識の非連続性がやってきたりして。なんというか、品がないなあ…。

 


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